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◆熊野古道の意義 私たち先輩が熊野古道で巡礼の旅をした目的はどこにあったのか、私たちは生きている。「生は時なり」「時は過・現・未なり」(道元)人はみな過去の罪障消滅、現在安穏(心・身体・経済などの安心)、未来の幸福・極楽往生を願う。それらの願いを叶えてくださるのが、文化的・歴史的聖地である日本第一霊験所の熊野三山(本宮・那智・新宮)である。もちろん、巡礼には新しい土地や人々に接する喜び、休養、娯楽としての楽しみもあったであろうが。 しかし熊野古道の本筋は真理を求めるためであり、真理を求めるには能率主義や合理主義は適用せず、その過程は様々な場所と人々を尋ねる苦難の道なのである。そのような苦難の道を辿ってこそ真理なり悟りなりと邂逅することができるのである。 真理や悟りに邂逅することにより、人々の所願は成就され、現実の様々な社会的・個人的悪しきことは少しずつ解消されると思う。
◆御浜町の熊野古道 熊野三山を目指した巡礼は大吹峠、松本峠を越え、有馬の花の窟で、海岸沿いの浜街道と山道を歩く本宮道に分かれる。浜街道の御浜町には巡礼供養碑・池大明神・浜辺の水神塔・市木の一里塚・稚子塚・雲揚艦遭難跡などがあり、本宮道の御浜町には水壷地蔵・神木流紋岩・上地地蔵・亀島の石灯籠などがある。
◇巡礼供養碑 浜街道に峠はありませんが、それに代わる難所がありました。それは志原川、尾呂志川、です。当時は橋もなく、波の引き間を利用して河口の浅瀬を走り渡りましたが、時には波にのまれる人もありました。志原川尻には巡礼供養碑があります。「異邦信士」(文化九年)「水雲(寛)法」(延宝二年)「空月源智」(元和三年)の三基です。丹波とか日高とか遠方から来られて、犠牲になった方々です。
◇池大明神 下市木三軒屋には壷の池大明神が祀られています。下北山村の池の峰神社の近くに大蛇が住み、住民や旅人を悩ませていました。神様は懲らしめてやろうと、下駄で踏みつけ三つに分けました。頭(奈良猿沢の池)と胴(池の峰明神池)と尾(下市木壷の池)です。その尾は壷の池の主となり、大うなぎとなりました。そのうなぎを取ると病になり、やがて亡くなり、村人はその後、うなぎを取らず、汚物を流さず、池大明神として祀りました。「この池に汚物を流すべからず」という立札を立てるのと、人間を超えた存在を認識させるのと、どちらに効果があるのでしょうか。
◇浜辺の水神塔 市木川の河口近くには水神塔があります。河口に積もった浜砂利のため海水が逆流し集落・田畑を水浸しにしました。こうした自然災害から守るため水神塔・三重塔が新旧五基建っています。うち一基は昭和59年に再建されたものです。自然(水・火・風・山・海など)は私たちに恵みを与えてくれますが時には災害ももたらします。そこで祈ります。今は人間の力(経済・技術・行政など)だけで、すべてを解決しようとして、祈りの心を忘れているように思えます。
◇市木の一里塚 市木に一里塚があります。正徳2年(1712年)熊野街道に一里塚が決められました。市木一里塚は旧街道を挟んで海側と山側にあり、ともに大小の松や雑木が茂っていました。現在の「史跡市木一里塚」という標石は昭和43年(1968年)山側の塚のあった所に建てられたものです。一里塚は旅人の休憩所であり、車馬賃算定の基準になった所でもあったと言われています。
◇稚子塚 阿田和貫ノ木に稚子塚があります。正徳年間(1711年から1716年)にお姫様が流れ着き、庄屋翁了に救われ茶屋を開き、一生独身で過ごしました。臨終の際、お世話になった翁了にお礼を述べ、「私を七尾七里が一目で見える高い山の上に葬って欲しい。そして、何時までも村人の平和を祈りたい」と遺言をしました。お姫様を近くの飛波山(ひわやま)に葬り、稚子塚と呼び、その名が「乙姫」であったので、大正10年(1921年)祠を建て、乙姫大明神として祀りました。お参りをすれば、美人が生まれ、無病長寿が得られると言われています。
◇雲揚艦遭難跡 阿田和の小松原で、明治9年(1876年)10月31日午後12時、雲揚艦が遭難しました。長州萩で乱が起こり、横須賀を軍艦浅間とともに出港しましたが、遠州御前崎で暴風雨となり蒸気機関が止まりました。そこで瀧野艦長は船だけで串本まで直行と決心しました。真夜中「あかりが見えます」とのことで方向を変えようとしましたが、横波をかぶり艦は動かなくなりました。艦長は全員上陸を命じましたが、泳げないもの11名をはじめ23名が溺死し、52名は勇敢な阿田和の若者の必死の活躍によって救助されました。殉難者は光明寺に葬られております。
◇水壷地蔵 水壷地蔵は弘法大師がここを通り、杖をついて清水を沸き出させ、旅人の便をはかったといわれる場所にあります。水壷地蔵は新旧2体あり、ともに丸彫り型座像です。その前に石灯籠があり、「神野木村安全」「往来安全」「嘉永三戌十二月」「願主 大坂佐藤家宗七 世話人 庄右衛門」の銘文が刻まれております。嘉永3年は桜田門外の変の10年前、1850年です。大坂の大工宗七は職を求めて熊野に来たが、仕事が見つからず、水壷地蔵で疲れはてて寝込んでしまいました。その夢枕にお地蔵様が現れ「この下の集落へ行くと仕事がある」と告げられました。早速神木集落へ下りてみると仕事があり、その後大繁盛したので、そのお礼に地蔵と石灯籠を献納したと言われております。
◇神木流紋岩 神木側から横垣峠を登ると峠を越え、しばらく進むと阪本に下る石畳道が続きます。この辺りの石が神木流紋岩です。一般に白色、(風化面では赤褐色)で流理構造が顕著です。長さ約10キロ、幅5キロ、平均の厚さ約300メートルの平板状の岩体をなして北東から南西方面に分布しております。熊野酸性岩の最初の活動で形成された地中のマグマが噴出した溶岩流です。東大理学部地質学教室の荒牧・羽田両氏によって「神木流紋岩」と名付けられました。
◇上地地蔵 峠を下り林道に出て、林道を少し左に歩いてから右に登ると山中に地蔵像があります。平成8年地区民から古道が埋もれていることを知らされ、調査の結果発見されたものです。この地蔵は座像で高さは81センチ、銘文によると天保5年(1834年)岩洞院滴水和尚の発願のもので、坂本村上地中とあります。正面台座には「般若理趣分 書写法施 供養」と刻まれております。滴水和尚は風伝峠から通り峠付近に何体かある地蔵の発願主です。
◇亀島の石灯籠 山を下りて少し歩くと、亀島と呼ばれている自然石の上に石灯籠が見えます。石灯籠の高さは2メートル54センチ、銘文は「文化十酉吉日」(1813年)とあります。妙見山の遥拝所と言われています。
東紀州百科事典の方でも紹介しています。お話にまつわる写真が多くご覧になれます。 ◆御浜町の熊野古道その1 ◆御浜町の熊野古道その2 |
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