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地蔵院庚申碑(町指定文化財) <
じぞういんこうしんひ(ちょうしていぶんかざい) > |
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紀北町(旧紀伊長島町、旧海山町) > |
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紀伊長島町東長島の禅寺、龍王山地蔵院の境内にある庚申堂内の庚申碑は、高さといい、彫刻の見事さといい、紀北地方を代表する石仏のひとつである。この庚申碑は元禄八年(1695)に二郷村の住人、東嘉右衛門によって奉建されたものである。
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三面六肘(顔が三つ、腕が六本)の青面金剛童子の表情といい、足元に踏み付けられた天の邪鬼(あまのじゃく)のユーモラスなポーズといい、美術品としても優れた石仏である。六本の手にはそれぞれ、法輪・弓・心に住む虫(人形)など、地域に忍び込む悪を退散させるための道具をたずさえている。碑の下部にはそれぞれ、目と耳と口をふさいだ三匹の猿が浮き彫りにされている。
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庚申碑堂横の、町指定文化財を示す石碑とともに建つ古い石塔にも、目と耳と口をふさいだ三匹の猿が配されている。
本来、庚申信仰とは道教からきた信仰で、六十日に一回巡って来る庚申の日に、神仏をうやまい人間の欲望を慎み、在所の者が集い夜を徹して語り明かし意思の疎通をはかったという。その日には人間の身に住む三寸ほどの虫が天帝のもとに帰り、その人の行いを報告するという。 これが猿を神使とする山王権現や、道祖神などの民間信仰と結びついて、村々の辻に六本の腕を持つ青面金剛童子像を刻み込んだ庚申碑が建てられるようになったのは、江戸時代に入ってからのことで、庚申信仰の盛んな時代をしのばせる文化財である。
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昭和二十年の長島空襲で、地蔵院は全焼、本堂わきの子安延命地蔵尊像も消失してしまったが、この庚申碑は残り、再建された地蔵院境内にあって、今も地元民の信仰を集めている。
三百年近い風雪と、絶え間ない香煙のために、アメ色に変色したこの石仏碑は、最近では受験に霊験ありとかで、一層参拝する人々を集めているのは、まさに時代の反映なのであろう。
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参考文献 |
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紀伊長島町の文化財 町指定文化財碑 |
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その他関連情報 |
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なし |
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