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下記の記事への返信です。

No.748 
出雲熊野大社由来
投稿者:八雲之遠呂智  2005/10/30 14:10:51
 風土記の意字郡出雲神戸の條に、「伊佐奈枳乃麻奈子坐熊野加武呂乃命」 とあり、延喜式に収める 「出雲国造神賀詞」 に 「伊射那岐乃日真名子加夫呂岐熊野大神櫛御気野命」 とあるので、古くこの大神は伊弉諾尊の御子で櫛御気野命と称する神であると考えられていた。  「櫛」 は 「奇」 であり、「御気」 は 「御食」 であろうから、その意は要するに霊妙なる御食津神ということになり、さらに切りつめれば穀霊ということになってゆく。

 ところが、このクシミケヌノカミを祀る社がここにもう一社あり、同じ意字郡四十八座の中に 「山狭神社、同社坐久志美気濃神社」 と記されている。 この山狭神社と同社坐神社とは、出雲国風土記では 「夜麻佐社」 「夜麻佐社」 と、意字郡の社名列記の條の第二位と第十二位とに別々に記されている。 この両社は、その社名をともに「山狭」としている。 鎮座地は山狭地区、すなわち現安来市広瀬町の山佐地区であったことは疑いない。 現在該地には、上山佐と下山佐とに共に 「山狭神社」 と称する社があるが、社伝ではこれが風土記以来の山狭両社の裔であるとなっている。
 ところで、山佐といえば天狗山、すなはち風土記にいう熊野山の山麓にあたっている。 ただこの方はその東麓であって、熊野とはちょうど反対の方向になっているが、同じ熊野山から流れ出づる清流のほとりであるという点においては同じである。

 地図を見ればわかるように、熊野山から流れる水は、西へ落ちては意字川となり、東へ落ちては山佐川となって、やがては飯梨川に注ぐ。 その水上に近く、西には熊野大神の社があり、東には山狭の神の社があって、それがともに奇御食野神と称へられていたということは、けだし偶然のこととは思われない。
熊野坐神社の祭神は古く櫛御気野命といわれていた。 ところが、後になるとこれが素盞嗚尊に変るのである。 それはすでに旧事本紀の神代本紀に 「建速素盞嗚尊坐出雲国熊野・杵築神宮矣」 と見えているから、かなり古くからのことであったろうと思われるが、これに始まって後永くその主祭神は素盞嗚尊であるとされ、やがては櫛御気野命とは素戔嗚尊の亦の名であるとする説まで現れるに至った。
 天保四年(1833)の 『出雲神社巡拝記』 には 「くしミけぬの命と有ハ則すさのをの命の御名也。 天照大神ハ伊勢を本津大宮とし玉う。 須佐之男ノ神の本津大宮ハ此御宮也」 と説いている。

 しかし、等しく伊弉諾尊の真名子の加夫呂岐であるからとて、それだけでこれを同神とするわけにはゆかぬはずである。 たとえば 『長寛勘文』 に引く 「初天地本紀」 にも、「伊射那支尊(中略)陸上時、身体左肩忍奈豆流時成出来神、名加己川比古命、右肩忍奈豆流時成出来神、名熊野大神加夫里支名久々彌居怒命、自髻中成出来神、名須佐乃乎乎命、三柱王等是也」
 とあり、熊野大神と須佐乃乎命とを別押として考える伝承もあったのである。

 その理由は明らかでないが、あえて想像すれば、出雲国造の西遷に伴う杵築大社の発展と無関係ではあるまいと思われる。 しかし明治になり、古代への復帰が叫ばれる時世になると教部省の 『特選神名牒』 では 「熊野坐神社、祭神神祖熊野大神櫛御気野命」 と記したが、今日の 「明細帳」では、結局 「祭神須佐之男命、亦御名神祖熊野大神櫛御気野命」 としている。御祭神

伊射那伎日真名子 加夫呂伎熊野大神 櫛御気野命
(いざなぎのひまなこ かぶろぎくまぬのおおかみ くしみけぬのみこと)由緒
 斉明紀五年(659)の條に 「是歳、命出雲国造修厳神之宮」 とある。 出雲国風土記によれば、当時の出雲国には「大神」と称える祖神が四柱あった。 すなわち、この熊野大神と、意宇郡野城駅の條に見える「野城大神」、島根郡と秋鹿郡とに見える「佐太大神」、そして随所に散見する「所造天下大神」すなわち杵築大神の四柱である。 この熊野大神は古代出雲における四大神の一であった。 風土記の社名列記の條を見ると、熊野と杵築とについては「熊野大社」 「杵築大社」と記されている。 この両大神の場合は社としても大社扱いにされていたということが知られる。
 また、延喜式の式部上によると、「謂、伊勢国飯野・度合・多気、安房国安房、下総国香取、常陸国鹿島、出雲国意宇、紀伊国名草、筑前国宗像等郡為神郡」 とあって、ここに出雲では意宇郡が神郡と定められた由が見えているが、これは熊野大神をまつるためのものにほかならない。

 文徳実録仁壽元年(851)五月二十八日の條には「授出雲国正三位勲七等熊野坐神、正三位勲八等杵築神、紀伊国従五位上熊野早玉神、熊野坐神並従二位」とある。 次いで貞観九年(867)四月八日の條には、この出雲の両神には正二位を授くと見えている。 その序列は、終始熊野をもって首位とし、杵築をもって次位としている。 地元にあっても、中央から見た場合にしても、常に熊野坐神社を国内第一の社とし、杵築大社をもって次位の社とすることに変りなかった。 ところが、中世から近世へと下るにしたがい、熊野大社の名はほとんど出てこぬようになるのである。 
 その最も大なる因は、この熊野・杵築両大神をともに祖神として斉き祭る出雲国造家が、意宇郡から出雲郡に移住したということにある。 出雲国造家が、古く意字郡を本貫としていた。 それが現在の大社の地に遷るに至ったが、延暦十七年(798)の国造郡領兼帯の禁と無間係ではあるまいと思われる。 いずれにせよ、国造家の本拠がもともと意字郡であったればこそ、その意字郡の奥所に鎮まりますこの大社を国内第一の大社とし、西方十余里の地に鎮まります杵築大社は、これを第二の大社としていたわけである。 しかるに国造家の本拠地が西へ遷った。 さればこの両大社の関係も、それにつれて反対にならざるを得なかったわけであると八雲熊野神官の申すところである。

 しかれども、更なる文書を紐解くと熊野の名は、古事記にも記された意宇の最東部、出雲と伯耆の堺
比婆山の熊野神社にさかのぼる。この熊野神社は久米神社との名で今に伝えられているが、古くより
伊邪那美の神陵地として尊崇を集めていたところでもある。出雲国風土記の伝える郷名はこの意宇最東部で細かく区画されていることからも現安来を中心とする地区がかつての出雲の中心地であり、その地の人々の尊崇を集めたのが久米乃社であると考えると、久米社が熊野大社に元熊野大社が杵築大社へと移り変わったと考ええるのがふさわしいと揖屋の古老の申すところである。揖屋は古事記にある黄泉比良坂という顕界と幽界を分かつ場所であり、幽界たる安来の記憶はほかにも様々な文書に隠されていると見るべきであろう。
No.1724 
須賀神社
投稿者:神世観光  
2020/09/13 15:33:31
島根県の安来といえばスサノオの大刀神話以外にも、修理固成、八洲起源のオノゴロ島ともくされる十神山、イザナミの神陵のある比婆山と色々古事記の聖地、巡礼が楽しめるところですからね。


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