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トップページ >> コース紹介 >> 女鬼峠コース(田丸〜栃原) >> 画像付きコース案内
コース紹介

 このコースの出発点でもあり、伊勢路の出発点でもある田丸、中心にあるのは田丸城跡です。今も立派な石垣が残っています。また、この敷地内にある玉城中学校のグラウンドには、街中にあった古い道標が移されて残っています。
 田丸城には、次のような古い歴史があります。(現地の説明案内から引用)
 南北朝時代の延元元年(1336)、後醍醐天皇を吉野に迎えようと伊勢に下った北畠親房が、ここを南朝方の拠点としたのが始まりとされています。南朝方の拠点である吉野から伊勢神宮の外港大湊に通じる道は、軍事・経済の面から最重要路線であり、田丸城は北朝・南朝の攻防の舞台となりました。
 室町時代には、伊勢国司となり多気(美杉村)に館を構えた北畠氏の支城として伊勢志摩支配の拠点となりました。
 天正3年(1575)、北畠氏を継いだ織田信雄が田丸城を大改造し、本丸には三層の天守閣を建てて田丸城が誕生しました。しかし、天正8年には、この天守閣は炎上しています。
 江戸時代には、紀州藩主 徳川 頼宣の家老 久野宗成が田丸城主となり、久野家は代々城代を勤めました。城は、明治2年(1869)に廃城、同4年には建物が取り払われました。昭和3年(1928)、城地が町有化されて一般に開放されました。
田丸城 天守閣跡 田丸城跡の石垣

下左:田丸城・玉城町役場の前に続く東へ伸びる道を歩いてすぐ、道標の立っている三叉路。ここがかつての伊勢街道と熊野街道の合流点です。
下右:その合流点に昔立っていた背の高い道標は、田丸城跡のすぐ隣にある玉城中学校の敷地内に置かれています。今の道標の1.5倍くらいの大きさがあります。
伊勢街道との分岐点 かつて分岐点に立っていた道標

田丸に残る旧家 田丸城跡(玉城町役場)を出発して、田丸の街中を歩いて県道へ向かいます。
伊勢路の出発点であったことなどから、田丸は古くから宿場町として栄えていたとのことで、今でも街中には旧家がポツリポツリと残っています。
JR田丸駅のすぐ近くには、御鳥見役の屋敷跡などもあります。御鳥見役とは、玉城町の南西方向にある国束山が、紀州藩主の「鷹狩り場」であったことから、その取締りをしていた人のことです。

下左:田丸の街中から県道へ合流した地点には、背の高い道標が立っています。2mくらいあるでしょうか。文政7年(1825年)と書かれています。
下右:しばらく、県道の歩道を歩いていきます。歩道があるので危険なところは少ないのですが、あまり面白みもありません。
県道にある道標 県道の歩道を歩く

下左:県道から少し入ったところにある東外城田神社。たくさんの鳥居をくぐっていくと、きれいに掃除された小さなお宮があります。
下右:県道沿いには民家や企業の工場のほか、田園風景が広がっています。この地域で栽培が盛んなのが、柿。画像は、春先でまだ新芽の出ていない柿の木が並ぶ果樹園の様子。県道沿いにたくさん見られます。
東外城田神社 柿畑の様子(初春)

県道を歩いていくと、原の大辻に到着。今の県道は左へ緩やかに曲がっていますが、旧道は画像右にある細い道。
画像の中央にあるちょっとした森に、小さなお宮と観音様がたくさん置かれています。かつては観音様があったようですが、今は道標などが残る程度となっています。
左:原の大辻
下左:原の大辻に残る観音像
下右:原の大辻から入る旧道

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