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世界遺産伊勢路セミナー 曼荼羅絵解き−伊勢から熊野へ  2006年1月28日
  内容 その1
(ページ作成者が聞き取ったメモに基づいてまとめた文章ですので、誤っている部分もあるかもしれません。配布された資料を画像で載せましたので、図を見ながら読んでいただくと分かりやすいと思います。)

●はじめに
 「紀伊山地の霊場と参詣道」は2004年に世界遺産に登録されたが、霊場だけでなく道が文化遺産の対象として登録されたというのが大きなポイントです。人が作り出して守ってきた道というものが文化遺産になっている事例としては、スペインのサンチャゴ・デ・コンポステーラという巡礼道があります。どちらも大切なのは、「誰が行き来してきたのか」ということ。これを考えながら、絵解きを進めていきたいと思います。もちろん、かつての絵解きの台本が残っているわけではないので、私なりの絵解きということになります。
曼荼羅と言うのは、熊野観心十界図で簡単に見ると、真ん中に「心」があって、自分の心を見るということです。そこには仏もあれば閻魔様のいる地獄もあって、死んでから巡るとされている10の世界が描かれています。曼荼羅というのは簡単に言ってしまえば、「いろんな世界があるけど、天国へ行きたかったら良い行いをしてがんばりなさいよ」ということになります。
こういった曼荼羅を持ち歩いて各地で「絵解き」、つまり曼荼羅を使って参詣の様子や意味を伝えたのが、熊野比丘尼(くまのびくに)。写している資料(※熊野比丘尼が絵解きをしている様子が描かれている絵図)は徳川家光の時代のものと言われていますが、その頃には全国で絵解きが行われていました。その参詣曼荼羅、現在見つかっているのは約40点。北は東北から西は岡山まで広い範囲で見つかっていますが、それだけ広い範囲で絵解きが行われていたということの証拠です。

●伊勢参詣曼荼羅図
(当日配布されたのは、三重神宮徴古館農業館所蔵のもの。白黒ですがご覧ください。/ 文字なし(705kb) ・ 解説文字入り(670kb)
伊勢を描いた参詣曼荼羅は4点残っていますが、三井文庫所蔵のものと、神宮徴古館所蔵のものの2つを使って説明します。
絵を見れば分かりますが、内宮(図の左側)と外宮(図の右側)の社殿などの形がずいぶん異なってます。昔はこういう形だったというわけではなく、曼荼羅というのは京都などの町絵師に発注して作られるので、きちんと情報が伝えられていないと、町絵師の想像で書かれるところが出てくるのです。その結果として、ちょっと見慣れない神宮や朱色の囲いなどが登場しているというわけです。
外宮近く(図の右下)、橋がなかったはずの宮川に橋が架けられていますが、船を浮かせてその上に板を置く仮設のもので、何か大きな行事があるときに作られたものです。もう一方の内宮近くにある五十鈴川の宇治橋の上(図の左下)には、板に乗って担がれている立派な人がいますが、これが豊臣秀吉からの勅使と思われます。つまり、戦国時代に120年間ほど途絶えていた式年遷宮を、豊臣秀吉が復活させた当時の様子を描いたと考えられます。
宮川では、禊(みそぎ)をしている人が描かれていますね。宮川(図の右下)を渡って外宮に向かってもう1つ橋を渡ると門前町の山田です。聖地なので穢れた者は入れないということで、宮川で身を清めているんでしょう。余談ですが、明治維新の頃までは、山田は聖地ということで、そこでは人が死なないことになっていたんです。死にそうな人がいれば外へ運び出したり、実際に死んでいても外へ運び出してから死んだことにしたりといった風習があったくらいです。
門前町の山田へ入る前にある小さな橋が「筋向橋(すじかいばし)」で、今では下を流れる川は道路の下に隠れてしまっているが、欄干の一部が残っています。その筋向橋の外側には、奪衣婆(だつえば)らしきものと後ろに木が描かれています。奪衣婆は、死んだ人が三途の川を渡る前に衣を奪って衣領樹(えりょうじゅ)に掛ける婆なので、ここでは筋向橋で三途の川を渡って地獄へ行くのだということが読み取れます。つまり、伊勢を地獄として描いていることになるのですが、長野の善光寺に代表される「地獄信仰」のようなものと考えれば良いでしょう。山田の町には八日市の様子が描かれていて、店でいろんな物が売られています。
ちなみに、奪衣婆が描かれているのはお堂のような建物。伊勢にお寺がないのですが、これは明治時代の神仏分離によって排除されてきたためで、昔は伊勢にもたくさんのお寺があったのです。内宮前にあるおはらい町にも、かつてはお寺がたくさん並んでいたが、今はありません。神仏分離によって、神と仏、神社とお寺は別のものとしてお寺が潰されたのです。山田も同じで、資料には登場するけれど残っていないお寺が多いのです。また、古市にある「麻吉旅館」では、部屋の中の白壁が崩れて阿弥陀様や仏様が出てきたことがありますが、これは神仏分離のときに、壁に隠したのだろうと思います。その仏像などの美術的な価値は別として、歴史のひとコマとして残されていたということです。
人を見てみると、歩いている人の中には山伏がたくさんいて、人々を案内している様子がわかります。今で言うツアーコンダクターみたいなことを山伏がやっていたのか、巡礼の案内役として歩いていたのか、山伏の姿を追っていくと、順番に絵解きが出来るようになっています。
神宮徴古館所蔵のものはまだ良いのですが、三井文庫所蔵の参詣曼荼羅を見てみると、外宮の造りが「妻入り」になっています。屋根の形もおかしくて、唯一神明造りではなく春日造りっぽい。回りも朱塗りになってます。さらに三井文庫版では、10人と決まっているはずの禰宜さんが12人いたりします。こんな風に、細部についてきちんと伝えられずに書かれていることもけっこうあるのです。
外宮の後ろ(図の右上)を見ると、円墳と石室みたいなものが描かれています。今では立ち入り禁止になっていますが、高倉山という場所で、70mもある大きな円墳です。ここを天岩戸(あまのいわと)に見立てて、石室の中からこっそり様子を窺うアマテラス、その前ではアメノウズメによる踊りのようなものが描かれていますね。単に高倉山を天岩戸に見立てて書いたのか、あるいは当時、本当にそういった神楽やお芝居が行われていたのかもしれません。
私は今、関西学院大学に勤めていて京都に住んでいますが、小学校から高校までは父親の仕事の都合もあって伊勢で過ごしていて、実家も伊勢にあります。いろんな霊場などに行ったが、今でも「伊勢は特別な場所」だと感じます。しかしながら、そういう「今の伊勢」は、実は近世になってから作られた伊勢で、言葉は悪いけれど、かつてはもっと猥雑(わいざつ)な所だったのではないでしょうか。この曼荼羅に書いてあるようにお寺もたくさんあったし、内宮のすぐ隣、あちこちに弁天様や大黒様を祀った社があったけれど、明治の神仏分離で取り払ってしまった。いろんなものが入り混じっていた、人間臭さのある伊勢の方が、実は面白かったのではないだろうか、活力があったのではないだろうかと思います。
外宮を出て内宮へ向かう道が描かれています(図の真ん中、上から下)。かつて櫛で有名だった岡本が描かれていて、小田の橋があって、遊郭として栄えた古市があり、牛切坂があって、宇治橋に至ります。
宇治橋で人が担いでいる板の上に座っているのが、秀吉からの勅使ではないでしょうか。一方、橋の下には「網受け」と呼ばれる人たちがいます。五十鈴川に賽銭を投げる人が多かったため、その投げられる賽銭を受けようとする人たちがいたらしく、それがまた上手に受けるというので有名だったそうです。そういう風景までここには描かれています。また、そういう網受けの人たちを楽しんでいる人々が宇治橋の上に描かれています。現在のように、パチンコとかいろんな楽しい場所がなかった時代のこと、神社やお寺に行くというのは、救いを求めてお参りに行くというだけでなく、楽しいことだったはずなんです。それはそのまま、ここに描かれている猥雑さにつながっていくものだと思いますし、そういう楽しさを、今の時代にも作り出せないものだろうかと思ったりします
内宮に着くと、やはり建物の造りはちょっと違って描かれていますね。周辺には、摂社末社がたくさんあって、大日坊という坊主がすぐ近くにいます。また、傍を流れる五十鈴川には何かが流れてきていて、それは上の方(図の左上)にある朝熊山から来ています。朝熊山には金剛証寺があるので、それと伊勢神宮を結び付けて描いているのかもしれません。
朝熊山の後ろ(図の左上端)には富士山が描かれています。実際に朝熊山から富士山が見えるけれど、富士山が見えることにどういった意味があったのかと言えば、はるか彼方に見える富士山を「あの世の島」に見立てて、それが伊勢の地から見えていることに意味が持たされているのだと思います。ちなみに、富士山から雲を隔てて少し下のほうには、道端に岩があります。これはおそらく、二見町の夫婦岩。本当は夫婦で2つあるけど、やっぱりここもきちんと伝えられていなくて、何だかよく分からない岩になっています。
 →その2 那智参詣曼陀羅図
その3 熊野観心十界図

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