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日与加久良(帆ヶ倉) <ひよがくら> |
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国道311号を走っていると、御浜町神木の山の上に大岩が見えます。ずっと気になっていたところへ行ってみました。そこは・・・・・御浜町神木(こうのぎ)木和田地区集落を見守る神様として古くから信仰のあった地です。 登り口に標識も何もなく、個人のお宅の道を入るように畑の道を抜けて登り口にたどり着きました。 近所の方にたまたま声をかけ、よくご存知の方だったので入り口まで連れて行ってくれました。
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花の窟湯立釜 <はなのいわやゆたてがま> |
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熊野市有形民俗文化財に指定されている花の窟湯立釜。 世界遺産 花の窟神社においては、かつて、毎年花の窟の祭りの日に、朝廷から「錦の幡」が献上されていましたが、ある年、熊野川の洪水によって流されてしまい、それ以来途絶えてしまったと言われています。 「錦の幡」も本宮大社に置かれるようになり、その宝も洪水の時に失ったとされており、現存する宝物としては、花の窟湯立釜と花の窟図 版木 菱川廣隆原画の2つのようです。 花の窟湯立釜は、熊野市歴史民俗資料館に置かれています。
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民俗・文化・歴史 情報一覧 |
木本・尾鷲の交通 <きもと・おわせのこうつう> |
大阪、名古屋からは国道42号線です。木本ー尾鷲間の矢の川峠(「やのこ」と読みます)は、1968年に下をトンネルが通りましたが、昔は高度800M迄あがる難所でした。冬の晴れた日には300KM以上先の富士山が見えたそうです。 |
清滝の不動さま <きよたきのふどうさま> |
熊野市大泊町の観音道登り口近く、国道42号線横すぐに落差約50mの清滝があります。 子供の頃、滝の上に登り、下を見て恐さで足がふるえたのが思いだされます。 国道から滝壺まで15mぐらいで、国道横に駐車が出来るスペースがあり気楽に立ち寄れます。 国道が通っていない昔、霊気が感じられる、この清滝で泊観音の堂守や不動さんの堂守が水垢離をとり修行したので別名(観音滝、不動滝)とも呼ばれています。 この滝壺横の洞窟に不動明王が祀られていて、今でも信者の方が訪れています。 この不動明王について古老に聞いたお話を紹介します。 |
紀和の火まつり <きわのひまつり> |
毎年8月の第一土曜日におこなわれる「紀和の火まつり」は一時途絶えていたが、平成元年に復活させたお祭りです。 メインの「柱まつり」は、高さ約20メートルの柱に取り付けられた「竹籠」をめがけて、玉入れの要領で燃える松明の紐を回しながら投げ入れる昔から受け継がれている伝統行事の一つです。 |
九木神社 <くきじんじゃ> |
九鬼港の端に九鬼氏の祖、藤原隆信が祭った神社、天満天神社(九木神社)があります。 ○天満天神社(九木神社) 境内宮山周六町 村端巳の方にあう村の住人九鬼氏貞治年中の兵乱に急難を免れたるにより居城の西北に永和年中管廟を創建し寛文二年今の地に再建す其事棟札に詳なり社内の重器に九鬼宮内少輔奉納の弓失あり寛文九年丹州綾部城主九鬼式部少輔先祖の舊縁により弓袋長刀太刀石燈篭を寄附せり祭礼は正月八日村中より二人を撰みて射初の式あり未社二社あり(紀伊続風土記)
神社の境内地は、国の天然記念物に指定されているほど、由緒ある神社です。 |
熊野 花火づくり作業 <くまの はなびづくりさぎょう> |
熊野市がもっとも賑わう日と言えば毎年8月17日におこなわれる「熊野大花火大会」。 熊野の花火を支え続ける「和田煙火店(熊野市有馬町)」さん(熊野大花火の鬼ヶ城大仕掛けをおこないます)へ、花火作りの取材を申し込み梅雨の合間の晴れ間に天日干しされている花火の玉を撮影させていただきました。 6月いっぱいぐらいが花火作りのピークで、その後は夏の花火大会で打ち上げられていきます。 |
熊野市百科大事典:雑記 『常民の戦争と海』 <くまのしだいひゃっかじてん:ざっき『じょうみんのせんそうとうみ』> |
プロペラ船の事を調べていてこの本を知りました。
第二次大戦中に陸海軍に徴用され、消耗品として、ほぼ全てが、行方不明・不帰還となった漁船と機帆船の記録です。 聞き書きです。和歌山県の船についてだけですが、読むと、「今書いておかなければ消えてしまう」「書いて本にしておけば少なくとも記録として残る、残しておきたい」という著者の悲鳴が聞こえてきます。
戦後の公的な記録では、戦争によって、機帆船 2,070隻、漁船 1,595隻が失われたとあります。しかし、機帆船と漁船については、実際にどれだけの船が徴用され、何時、何処で、どのようにして、沈んだのかは全然と言って良いほど分からない。かすかに、この本の様に聞き書きで分かるだけです。 知ったところで今更何ができるわけでもなく、何の役にも立たないかもしれませんが、そのように生きたり死んだりした人があったことを知るということに、供養の意味があると思います。
戦記もののように勇ましいことは何もありませんし、反戦もののような理屈も無いです。ただ事実を挙げてあるだけ。登場する生き残りの船長や乗組員の話しもまるで悲壮感がないのです。残された奥さんの話しが二人ほど出てきますが、これはかなりつらい。 上級職業軍人の戦記は、「志願して前線へ行きたいと申し出て、上官の励ましを受けて出陣し、苦労を重ねて戦果を上げた」、という構図が多いのですが、職業軍人としてこれは当たり前の事です。
漁船の場合も機帆船の場合も、「そもそも沿岸用の船なのに、引っ張られ、行きたくないけど行きました。そして、消耗品として使いつくされて全滅しました」、という構図です。こっちは当たり前じゃないところがつらいところです。 経験者がどんどん亡くなりつつある今日、記録を残す最後の機会として、著者のあせりは良く分かります。だれか、三重県側についても調べることのできる人はいないでしょうか。
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