|
|
当サイトはどなたでもご自由にリンクしていただいて結構です。よろしければ上のバナーをお使いください。 |
|
|
|
熊野市百科大事典:第五福龍丸 <
くまのしひゃっかだいじてん:だいごふくりゅうまる > |
<
熊野市(旧熊野市、旧紀和町) > |
|
第五福龍丸のエンジンが1996年12月1日、 御浜町 で引き揚げられました。尾鷲市のローカル新聞「南海日日」(1996年12月3日)によると、引き揚げには尾鷲市三木浦町の奥地堅作氏が全面的に協力、所有するクレーン付きの石材運搬船第八勘成丸(726トン)を使いました。
|
|
引き揚げは、和歌山県海南市の杉末広さんが計画したものです。1998年には東京都が受け入れを決め、東京都の江東区にある第五福龍丸展示館に収められることになりました。
|
礁で行われたアメリカの水爆実験で死の灰を浴び乗り組みの23人が被災した船です。これは大変な事件でした。日本にとって広島、長崎の原爆に続く核兵器による被爆であるわけです。
本船は明らかにアメリカの設定した危険水域の外にいたにもかかわらず甲板に積もるほどの死の灰を浴びました。アメリカは本船がスパイ活動をしていただの、乗組員の病気や死亡の原因は放射能によるものではないとか言い政府間での公式な遺憾の意を表明したのは4月に入ってからでした。その後も補償交渉は遅々としていました。
日本政府は5月、下関水産研修所の練習船「俊鶻丸(しゅんこつまる)」を調査に派遣しました。この調査にはアメリカの抵抗がありましたが調査の結果核実験による汚染の状況が明らかにされました。私などはまだ小学校の低学年だったのでこの事件についてはよく知りませんでしたが、それでも放射能にあたると禿げるとか雨に濡れてはいけないとかガイガーとか遊びの種にしたことを覚えています。
この事件が契機となって原水爆禁止運動が盛り上がり、翌1955年8月6日広島で第一回原水爆禁止世界大会が開かれました。その後原水禁運動も政治的に分裂したりして第五福龍丸保存運動にも悪い影響がありました。
|
|
|
第五福竜丸に付いては 「熊野からの手紙」 に詳しいです。「熊野からの手紙」その他から得た同船の生い立ちなどを書いてみましょう。
第五福龍丸は、昭和22年 (1947) 3月 20日、和歌山県の古座造船で第七事代丸 (ことしろまる) として生まれた木造の漁船です。古座造船所は当時の社長は植村直太郎といいます。今はもう廃業しました。発注者は、事代漁業の寺本正一で、昭和 21年10月でした。寺本の親戚が太地にいてその縁での発注でした。設計は当時の古座造船所造船部門の責任者であった南藤藤夫です。南藤は復員したばかりで、始めての漁船でした。
船大工は、南藤ほか、植村奈良治、植村明治、和田由一、西田繁三、谷口順次、石浜光夫、前田茂美など。船主が派遣した建造監督は、寺本の息子の四郎でした。四郎は毎日大工に飲ませる酒の手配に苦労したとあります。
船材には、県境を越えた三重県南牟婁郡井田村の松材を使用、同じく三重県の鵜殿村の東正寺の松を竜骨に使ったとあります。船大工は、遠洋船なので気持ちを込めて造ったといいます。船の大きさは99.09グロストン (グロストンはGTと略します。船の大きさの単位で、船の体積を表わします。99.09というのは当時の建造上の規制によるものです) ですが、実際にはもっと大きかったそうです。
カツオの一本釣り漁船ですから舳先がすっと伸びていました。「熊野からの手紙」には、3月20日、進水直前の写真があります。美しい船体です。1951年までは、カツオ漁船として神奈川県の三崎を母港にして活躍しました。建造の 1947年から 4年間は、船頭中村藤四郎の下でカツオで全国一になったそうです。
1951年にマグロ延縄 (はえなわ) 漁船に改造されました。カツオ船は一本釣りですから、延縄漁船とは設備と形が違います。1953年 5月焼津の西川角一氏に 1200万円で売却され焼津を母港とする第五福龍丸になりました。そして翌年 1954年 3月 1日、ビキニで被爆の難にあったのです。
このくらいの大きさの船では魚は 30-40トン積めます。延縄一回の操業では約 2000本の鈎を入れますが、鈎 100本に 2-3尾が普通です。ですから一回の操業で数十尾、2トン位になるでしょう。ですから一航海で 15回位の操業をします。
この時、第五福龍丸は 14回目の操業で延縄を入れ終えたところでした。早朝、4時 12分頃の事でした。南西方向に閃光を認め、7-8分後に爆発音を聞きました。約 3時間後に白い灰が落下、甲板をうっすらと被いました。船は延縄を上げた後母港の焼津に向かいましたが、乗組員の灰をかぶった皮膚は火傷の症状が出、頭髪が抜けたりしました。この間、本船は、この事を母港に報告していません。通信長の久保山氏は、無線が傍受された場合、アメリカに船が沈められてしまうことを恐れたのです。
3月14日朝、焼津に帰投。乗組員は焼津協立病院で手当てを受け、さらに東大病院で検査の結果、原爆症と診断されました。3月 17日の調査団の調査結果では、船内は毎時 110ミリレントゲン。24時間居住の場合、最大許容量は 2ミリレントゲンと言われましたから、被爆後 2週間の船内の放射能の強さは殺人的であったと推測されました。
|
被災の位置については、アメリカの設定した危険水域の中であったか外であったかが問題になりましたが、漁労長が水爆の閃光を認める20分まえに行った尺測資料をもとに、海上保安庁は北緯 11度 53分 15秒、東経 166度 35分 30秒と断定、危険水域の東方 19海里 (約35KM) でした。
その後、本船は、昭和 31年 (1956) 7月、国が買い上げました。文部省の所管です。アメリカは廃船処分を望んだのでしょうが、東京水産大学の練習船となりました。船名は「はやぶさ丸」となりました。
1967年 (昭和42年) 3月、廃船となり解体業者に売られました。業者はエンジンを取り外して転売、本体は夢の島のごみ捨て場で朽ち果てていました。夢の島は戦前は海水浴場だった所ですが、高度成長期には東京のごみ捨て場となり、ごみ捨て場の代名詞となったほどの所です。今は、JR京葉線の新木場駅前に夢の島公園となって整備されています。
ある人がこれを見て、1969年 (昭和44年) 3月のことですが、朝日新聞に投書したことがきっかけとなって保存運動が始まりました。丁度、東京も美濃部都知事の時代でしたから、素地はあったのです。同年 (1969年) 7月には保存委員会が発足しました。しかし、原水爆禁止運動は、昭和 38年 (1953) に共産党系と社会党系に分裂しており、保存運動もその分裂に足を引っ張られてスムーズには進みませんでした。結局、東京都が保存を決め、1976年 (昭和51年) 6月 10日、夢の島公園内に保存館が開館しました。
本船は、原水爆禁止の記念物としても重要なものですが、木造の遠洋漁業船の保存としても有意義なものです。
|
|
|
さて、本船が廃船になった 1967年、エンジンは先に述べたように外されて売られ、今回引き揚げに協力した奥地さんの遠縁にあたる奥地寿太郎さん所有の貨物船第三千代川丸 (木造 198トン) に取り付けられました。第三千代川丸は、翌 1968年 7月 21日、横浜から神戸に向け、潤滑油のドラム缶 717本を積んで航行中、熊野灘の御浜町沖で霧のため遭難し沈没を防ぐため七里御浜に乗り上げましたが、結局沈没しました。乗組員 5人は、浜に泳ぎ着いて無事でした。 1996年 12月 1日、沖合い 50M、水深 10M の所から引き揚げられたのはこのエンジンです。28年ぶりに引き揚げられたエンジンは、全長 5.4M、長島造船所で錆落としされた後、御浜町でも展示されました。最近まで和歌山市で保管されていましたが、夢の島に行くことが決まりました。 朝日新聞 がこの間の状況をフォローしています。最近、 第五福龍丸の本 も出ました。
|
|
2000年12月13日、第五福竜丸事件をスクープした元読売新聞記者で当時同社静岡支局焼津通信部に勤務していた、安部氏が亡くなりました。乗組員達は、スパイ行為と疑われることを極度に恐れ、口が固く、取材は難しかったと言います。読売退社後は、伊東市の仏光寺の住職をされていました。 読売新聞12月13日夕刊の社会面と14日の編集手帳に記事があります。
|
|
参考文献 |
|
・熊野市百科大事典 ・「熊野からの手紙」 ・朝日新聞 ・第五福龍丸の本 |
|
その他関連情報 |
|
なし |
|