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熊野市百科大事典:歴史 『後南朝・後南朝の残映』 <
くまのしひゃっかだいじてん:れきし 『ごなんちょう・ごなんちょうのざんえい』 > |
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熊野市百科大事典:歴史 『後南朝・後南朝の残映』 <
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熊野市(旧熊野市、旧紀和町) > |
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文明元年 (1469)、大乗院寺社雑事記11月21日に、噂として、南方の兄弟が蜂起し年号を明応としている。一人は吉野の奥に、一人は熊野に居るとあります。 翌文明 2年 (1470) 2月、日尊が大覚寺統の皇統を称して挙兵、海草郡藤白に陣しました。海草郡藤白といのは、今の海南市です。
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藤白は有馬皇子が処刑された地でもあります。大化の改新の後、658年、有馬皇子は、父の孝徳天皇の死後、自分が天皇になれなかったことや、中大兄皇子の専制的政治に対する不満から反乱を企てて捕らえられ、今の白浜温泉に送られますが、その時、藤白で処刑されました。
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日尊は12月、畠山政長(畠山義長という説もあります。下記参照)に攻められ敗死しました。 増補大日本地名辞書 の藤白の項に次の記事が引用されていますが出典は書いてないので不明です。
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日尊者南族、亦不詳、其属文明二年春奉小倉宮猶子教尊弟某起兵、 紀伊越智惟政首応之、進抵藤白、畠山義長発兵攻日尊、於南都殺之
(翻訳は間違っているかもしれませんが大体こんなもんかと思います) 日尊は南朝の一族であると言うが分からない。 その仲間と文明2年(1470)春、小倉宮の甥である教尊の弟の某を奉じて兵を起こした。 紀伊の国の越智惟政がこれに応じ、進んで藤白にいたった。 畠山義長が兵を発して日尊を攻めて捕まえ、奈良で殺した。
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同じ文明 2年、小倉宮の裔、7歳、名前不詳、が紀伊で挙兵と伝えられます。 翌、文明 3年 (1471) 8月、応仁の乱の西軍、山名宗全が、天皇を奉じるという名分を立てるため、小倉宮御息を南帝として迎えました。「西方新主は小倉宮御息、18歳に成り給ふ」(大乗院寺社雑事記)とあります。父は岡崎前門主とありますが不明。しかし、文明5年3月山名宗全の死と、その 2ヶ月後の東軍リーダー細川勝元の死により、応仁の乱そのものが収束に向かうとともに捨てられました。その後については不明です。これが後南朝の最後です。文明 10年、甲州の妙法寺の記録に、王が京からきたとの記事がありますが、関連は不明です。
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参考文献 |
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・熊野市百科大事典 ・増補大日本地名辞書 |
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その他関連情報 |
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なし |
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