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熊野古道伊勢路シンポジウム
  〜これからの世界遺産熊野古道を考える〜   2005年3月8日
●●プログラム●●
シンポジスト紹介シンポジストから一言シンポジスト討議感想(参考)アクションプログラムへのアンケート


  シンポジスト討議
 いよいよメインのシンポジストによる討議。2時間の長丁場ですが、最初は修験者のほら貝演奏で幕開け。会場に厳かな雰囲気が漂いました。
ほら貝の演奏
  話題提案 −田中さんから
 まず田中さんから、世界遺産登録、登録後の活動の中で気づいた点などについてお話がありました。

(田中さん)
 世界遺産登録について各地で講演などをしていく中で気づいたのは、「紀伊山地の霊場と参詣道」の世界遺産登録をスタートとして取り組むべきことは、「修験道の見直しを行うこと」、さらに言えば「明治以降、近代化の過程で日本人が捨ててきた日本の精神文化を見直すことである」ということです。その捨ててきた日本の精神文化が実は宝物で、それが認められたからこそ、今回の世界遺産登録があるのだと思っています。
 それでは日本人が捨ててきた日本の精神文化とは何か、少し説明したいと思います。
 日本の宗教は昔から、「神仏融合」の考え方でした。神様も仏様も混じり合った、多神教的な精神文化です。ところが、明治になったとき、政府によって「神仏分離」が行われたのです。西欧の列強に追いつかねばならないということで、西欧的な一神教文ならって国家神道だけを認めたのです。これによって、廃仏毀釈という運動が起こり、多くの仏像などが捨てられていきました。しかし、ここで殺されたのは仏だけではない、神もまた殺されたのだと思います。そしてまた、修験道というのは、神仏融合の考え方を元にしているので、明治政府によって廃止されてしまいました。
 そして戦後、国家神道はアメリカによって禁止されました。さらに追い打ちをかけるように、高度成長によって物質的な豊かさが達成される中で、精神的な面はどんどん置き去りにされていきました。こうして、日本の精神文化というものは完全に失われていったのだと思います。
 日本は、今でも非常に多神教的です。正月には神社へ初詣に行き、葬式は寺でする、結婚式はキリスト教の教会で、という具合です。日本人は、「自分は無宗教だ」と答える人が多いのですが、西欧的な一神教的価値観に基づけば、それだけ色々なものを信じるのは無宗教だと言うことなのかもしれません。西欧の人からすれば、日本人のこういった多神教的な行動は理解できないのかもしれませんが、日本人にとっては、そういった多神教的価値観の居心地が良いのです。
 この西欧的な一神教的価値観は、とかく他と衝突をします。自分たちと違う神は神様とは衝突するし、自然とも衝突します。神が与えた自然をどう切り取ってもよいのだ、という考え方をするからです。
 そこで、世界遺産登録について考えてみますと、9.11テロ以降、世界中で一神教的価値観に基づく世界のほころびが出てきています。ユネスコがどこまで考えているのかは知りませんが、今回の登録が日本の多神教的な精神文化を認めたものだとすれば、こういった世界の情勢が後押しになったのではないかと思っています。
 それでは熊野古道に目を向けてみましょう。馬越峠と言ってみても、峠なんて日本のどこにでもあります。なぜこれが世界遺産になったのか?そこを考えることが大切です。それはつまり、祈りの心を持って歩いた道であることに意味があるのだということです。奥深い自然の中で育まれた日本人の感性、聖なるものを見出す霊性といったものは、外国の人にはなかなか説明ができないものです。しかし、深い自然の中で神を見、仏を見てきた人間の営みがあったからこそ、世界遺産登録されたのです。こういった祈りの道であるからこそ、歴史の中で宗教オンチにさせられてしまった日本人にとって必要な道なのではないでしょうか。
 さらに言えば、多様なものを認めるという日本の精神文化を、一神教的な価値観によってひずみの生じている世界へ向けて発信していくのだ、それくらいの考えをしても良いのだろうと思います。
 
  その後の討議
 以上の田中さんからの発言をきっかけとして、会場からの発言も交えながら、その後の討議が進んでいきました。

(宗田さん)
 田中さんが触れられた点について、ユネスコがどこまで認識しているのかはわかりませんが、「文化的多様性」というのはユネスコでもキーワードになっています。多様性を踏まえて、近代化で失われたものを取り戻すという心の作業なのです。文化、文化財を特別なものと考えなくても、地域で守ってきていたものがあると思います。もう一度、人々の心の課題として、「守るべきものを守っていく」ということなのです。そしてまた、こういった議論がここ東紀州で行われているということに意味があるのだと思います。

(花尻さん)
 自然の中に何かを見出す、行き倒れ墓標の前で手をあわせるなど、何かを感じる場所に行って、初めてそれが感じられることがあります。

(会場から)
 那智の滝に行くと、やはり何かを感じるという人がいます。

(植野さん)
 熊野古道に関わるようになったきっかけは、7歳のときに行った本宮への旅行です。矢ノ川峠を越えるときに、とても強い印象を受けて、7歳のときのことなのにハッキリと覚えています。
 学生時代、そんな思い出もあって紀伊半島に注目して熊野古道を歩き始めたわけですが、伊勢路を歩いてみると、伊勢から大台あたりまでと、紀伊長島から先では違った空気が漂っていると感じました。やはりここには特別なものがあるのだと。

(宗田さん)
 花尻さんから紹介のあったように、歩きに来た人が何かを感じて祈りを捧げる、また植野さんのように若い方も東紀州に何か違ったものを感じるということです。
 同じ道の世界遺産であるスペインのサンティアゴ・デ・コンポステーラについて見てみると、道のいたるところに、伝えられてきている奇跡、物語が残されています。つまり100人が歩けばそこには100の物語があるということで、これがまさに文化になるのです。熊野古道にも同じような物語がたくさん残っているはずで、そういったものをもっともっと掘り起こしていく必要があるのではないかと思います。

(小倉さん)
 記録によれば、江戸時代の一番多い時期には1日に平均100人が歩いたことになります。これは今の時代の100人と違って、ものすごい数であると思います。
 それだけ多くの人が歩いた中では物語もたくさんあります。紀伊長島町について見れば、梅ヶ谷から紀伊長島まで、行き倒れになった巡礼者のための石仏が7、8つはありますので、それぞれに物語があるはずです。こういった物語を伝えていくということが、重要ではないでしょうか。
 また併せて、かつての巡礼者への「もてなしの心」、どんなに貧しくても何かを与え、倒れたら葬ってあげる、そういった「無理をしない程度でもてなす」という心が、この地域にあったということを、地域の人たちに伝え守っていくことが求められているのだと思います。

(宗田さん)
 今、小倉さんがおっしゃった地元の人たちの心というものは、まさに文化財保護法といった法律などでは守ることのできないものですね。
 尾鷲では、そういったもてなしの心というものはいかがでしょうか?

(池田さん)
 旧熊野街道である中井町通りについては、昔の面影はなくなっています。それでも、今あるものを守っていこうということで、地域の人たちが取り組んでいます。例えば、山から下りてきた人たちへのもてなしとして、通りに行灯で灯りをともすといったことです。そういった活動から、かつての街道としての何かを感じ取ってもらえればと思います。

(宗田さん)
 形のないものを守るという活動なのですが、長年守ってきた人がいるから、楽しめる文化的景観があるのも事実です。その代表的な速水さんはいかがでしょう。

(速水さん)
 このあたりのもともとの植生は、温帯性照葉樹林ですが、ひのきなどの植林が進んでいます。かつての巡礼者はここを歩くことで、きれいに守られている人工林を見て、「こうすれば地域が豊かになるのだ」という人工林の手法を、全国に広めていくことになりました。
 これからは、「求める森をどう作っていくか」ということが大切です。今までは、木を切った後にどうするかがきちんと考えられて、山が手入れされてきました。しかし、林業が不振になることで、無計画に植林や伐採が行われて荒れ山になっています。
 この点、森林の持つ価値について、行政はきちんと理解する必要があります。八鬼山の問題も、そこから来ているのではないでしょうか。これだけ人が歩くようになると、道の周辺ではまともに施業ができません。このままでは、10年もすれば古道沿いの道は真っ暗な人工林になるでしょう。施業の日を設けるなどの対策が必要になっています。
 熊野古道ということで私が考えているのは、新しい熊野古道を作っていくということです。それは地域に暮らす人たちの生活を変化させることでもあります。日常的にどう振る舞い、来た人にどう接していくか、稼ぐということではなく、どう守り育てていくかということが重要になります。

(宗田さん)
 道の保全というのは、前例がありません。その点では、これからみなさんが取り組もうとしていることは、未踏の地です。つまり、地元の人たちが意識して守っていかなくては、国や県がやってくれるものではありません。だからこそ、「守る」という言葉の意味を認識する必要があります。

(田中さん)
 守ろうと思わないと、守らないのです。
 伊勢路の価値は何か、何が大事なのかを考えたときに、「帰属する」ということが重要だと思います。先ほど話したとおり、明治のはじめから140年間もかけて壊してきた精神文化、その影響で、日本人は自分がどこにいるのか分からなくなっています。だからこそ、世界に向けて「日本人の居場所はここである」という発信をしていく必要があるのだと思います。
 人々は日常の生活で「気(ケ)」が付きます。そこで「ハレ」を行うことで気を元に戻す、つまり元気になるのですが、この「ハレ」というのは非日常を体験することで行われます。その場所が、寺社仏閣なのです。熊野古道が祈りの道であるということは、「ハレ」を行う場でなくてはなりません。地域の人にとっては日常であっても都会の人にとっては非日常であるということ、非日常としてももてなしによってハレを行うことができるのだと思います。
 「よみがえりを得る地」ということで、日本人のアイデンティティを得られる場所として、それを気づかせることのできるもてなしが大切ではないでしょうか。

(宗田さん)
 地域で暮らしている人には、非日常の地ということがわかりにくいのではないでしょうか。

(田中さん)
 そうなんですが、気づいていないのは国もユネスコも同じですから、その価値にすぐに気づけというのが無理な話だと思います。大切なのは、気づいたらそれを伝えていくということだと思います。

(会場から)
 熊野市の花の窟神社には、お綱かけ神事というのが年2回ありますが、地元の人はあまり参加しません。参加するのは他所の人ばかりです。地域の文化、地域で守るものといってもこんな状態です。

(田中さん)
 地元の人にとっては、神社も祭りも日常になってしまっている。非日常として捉えろというのが無理な話かもしれません。

(会場から)
 道にまつわる奇跡、物語ということで言うと、それはすでに起こっていると思います。
 道の駅 海山にいると、バックパッカーや自転車旅行者などいろんな人が来ます。その人たちと話をすると、自分が知り合いの人とその人も知り合いという具合に、どこかでつながっていたりするものです。この奇跡を、伝えていくのが重要だと思います。

(小倉さん)
 実は地元の人たちも、文化的な価値に何となく気づいてきているのではないでしょうか。
 例えば、活動されているみなさんに話を聞いてみると、「人が歩いてくるのでゴミが落ちていたりすると恥ずかしい」ということで掃除をしたり、整備をするということでした。自分たちがもてなすだけでなく、来る人からも何かを得られるということでしょうか。そして、強制されるのではなく、無意識のうちにそういった活動をしているのです。

(池田さん)
 そういった活動は尾鷲でも、中井町わっしょいの会とか、矢浜街道の人たちとかによって行われています。

(花尻さん)
 先日、松本峠を歩いていたら、地元の子どもたちが歩きに来ていました。小学校6年、5年と1年でしたか、3人がお弁当を持ってきて、鬼ヶ城の展望の良いところで弁当を広げて、食べ終わったらトランプなどで遊んでいました。地元の人にも、親しみのある道として定着してきているということを感じました。
 こうやって、地元の人に親しまれることから、その価値に気づいてくれるのではないかと思っています。道と道だけでなく、道と地域をつなげることの大切さがあると思います。

(宗田さん)
 つなげる、結ぶというテーマが出てきたところで、会場からご意見はありませんか?

(会場から)
 文化と言うことの意味がよくわかりません。とても広い範囲にわたっているように思いますが、熊野古道における文化とは何なのでしょうか?

(宗田さん)
 文化の定義としては、心象風景ということができます。単なる心象風景ではなく、多くの人が共通して持つ心象風景のことを指します。つまり、地元の人が共通して持っている心象風景、それが熊野古道の文化だと思います。
 そして文化を理解するために、「第一の門番」という言い方をしていますが、キリスト教におけるマリア像であるとか、金峯山寺における田中さんといった、文化を代表するような人や物があります。熊野古道では、誰がこの門番となりうるのか、このあたりも重要だと思います。

(会場から)
 地元では、峠と峠、道と地域を結ぼうという意識は非常に強いのですが、結べない障害があることがあります。行政も、住民も入って結びつこうと思っています。

(会場から)
 今日は和歌山から来ましたが、大辺路の掘り起こしをしています。大辺路は残念ながら世界遺産登録の対象外となってしまったのですが、伊勢路や中辺路と結べるように、これからも頑張っていきたいと思っています。

(田中さん)
 道をつなぐという話については、ただ単につなぐだけではダメかもしれません。道をつなぐことで、精神文化を伝えていくことこそが大切だと思います。例えば、大峯奥駆道は、修験道があるからこそ存在します。修験道がなくなって奥駆道だけが残っても仕方がないのです。修験道があってこその大峯奥駆道です。
 熊野古道を考えるときに重要なポイントがひとつあります。スペインのコンポステーラは、これまでずっと続いてきた道ですが、熊野古道は長い間埋もれていた、歩かれなかったということで、一度途切れてしまった道です。だからこそ、かつて道の核となっていたものを復活させることが必要ではないのでしょうか。

(宗田さん)
 それでは、最後にみなさんから一言ずつお願いします。

(植野さん)
 これからは、県境というものを意識せずに活動していきたいと思います。
 また、伊勢路踏破ウォークというものを企画してみたいと思います。これに関して、歩いていて感じるのですが、熊野古道以外の林道や町中など、産廃の不法投棄やゴミが目立ちます。ぜひ、そういった部分のクリーンアップもお願いしたいと思います。
 学生時代にやってきた縦走登山は自然との戦いで、常に挑んでいくという感じでしたが、参詣道は全てを受け容れながら歩くということで、ずいぶんと違うものと感じています。そういったことを伝えていければと思っています。

(池田さん)
 結ぶというキーワードで思い出したのが、「東紀州体験フェスタ」のテーマだった言葉「海・山・こころ くまの道」そして「神々との交感」です。まさにぴったりの言葉だったのだと思います。

(小倉さん)
 かつての道は、消えてしまっている、今の道になっているところが多いので、熊野古道としてどう整備していくのかが課題だと思います。峠と峠の間の地域の整備ですが、玉城から鵜殿までというと大変になりますが、せめてツヅラトから鵜殿までは、熊野古道として通して歩けるような整備をしていかなくては、と思っています。

(田中さん)
 熊野古道のどれが本物の道かという争いがあると聞きますが、私はどれが本物でも良いのではないかと思います。平成には平成の結び方があって良いと思うのです。
 みなさんには、世界遺産になったことをきっかけに、郷土愛というものを育んでほしいと思います。また、先ほど「第一の門番」というお話がありましたが、たくさんの人に門番になっていただきたいと思います。

(花尻さん)
 美しい石畳道は他にない伊勢路の特徴ですが、その石畳が江戸時代にどうやって造られたのか、まだまだ分かっていないことが多いのです。昨年の豪雨で国道が崩れても、馬越峠の石畳はびくともしなかった。そんな立派な道がどうやって造られたのでしょうか。
 そんな風に先人の偉大な力を感じながら歩けるように、まだまだ解明していかなくてはならないことがたくさんあります。

(速水さん)
 熊野古道を誇りに思うということですが、誇りに思う以上は、その誇りに見合うような暮らしをしなくてはなりません。この地域に来た人の感想や昔の物語を聞いていると、地域の誰もが胸襟を開いて、スッと仲間に入れてくれるという伝統があるのかもしれません。利益を前提にしないで、誇りに見合うような暮らしをし、みんなで一生懸命活動することが大切だと思います。そういった行動が、その地域の景観を作っていくということだと思います。
 地域に対して価値を生み出していく、まさに「仕事」をしていくことが大切です。これがないと、長続きはしていかないのだろうと思います。

(宗田さん)
 今は、世界遺産というだけで人が来てくれていますが、東紀州という地域が魅力的な地域にならなくては続いていきません。
 道というもの、その価値に気づくには時間がかかるかもしれませんが、その価値を伝えていくことが、世界遺産を守ることにつながり、さらには故郷を守っていくことにつながります。自分たちの故郷を守っていくことが世界遺産を守ることにつながるのだと思います。
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